イズム 〜その時を待ちわびて編〜

エッセイ

私達の存在が誰かにとっての希望となり、灯りとなり、その足元を照らせるように。

そのために学び、教え、繋がり、受け継いでいく。

私のGPSナビには星野源とオードリー若林がいて、いつも私に現在地と行先を示してくれる(ナビゆえ支障が出ることもしばしば)。

その2人がテレビ、そしてラジオで共演した。

事あるごとに2人に自分を重ね自問自答してきた私にとって、それは待ちに待った瞬間だった。

解答が見つからなかったいつかの問いかけも、この時の2人の答えを鮮明に輝かせるためにあったのではないかと思えた。

「なんて普通でつまらない人間なんだ」

学生時代からずっと自分にガッカリしてきた。見た目もキャラクターも普通。普通コンプレックス。

しかし最近になって気づいた。「普通なんですよ。」と進み続けてきたことが、そもそも普通ではないらしい。

時々”検問”に引っかかる。

『それ何のためにやってんの?』

『いや、普通は~だから。』

 好きだから、やりたいから、だけでは説明不足で、普通(に見える)人間は誰もが納得できる合理性を提示しないと捕まる。

…あれ?俺って普通じゃなかったの?

普通ってなんだったっけ?

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新社会人のあの頃。熱量だけは1人前だった。

1人でも多くの患者を任せて欲しくてたまらなかった。

そのくせ思うように結果が出せなくて背負いきれない悩みは暗闇へ吸い込まれていった。

病院から近くのアパートまでたった5分の道のりをまっすぐ帰れない日があった。

夕飯の献立を決め、定時に帰る先輩をみて何故切り替えられるのか理解できなかった(今なら理解できる)。

業務後のリハ室で先輩に指導され、不甲斐ない自分に悔しくて悔しくてポロポロと涙が止まらなかった(扱いにくい新人ですいませんでした)。

そして絶対に結果を出してやると誓った。

あの日の悩みは今もあの道に焼き付いている。

10年経った。

ここ最近、臨床が楽しくて楽しくて仕方ない。

寄木細工を開けるようにあーだこーだやっている。

自分の想いに、考えに、そして根拠のない自信に、技術と経験がやっと追いついてきた。

星野源曰く「いい意味で労力と結果が釣り合わない仕事」になりつつあるのかもしれない。

私も世界から一時停止している瞬間を待ちわびている。

星野源がドームで歌ったその時。オードリーが良い漫才をしたその時。

私の場合、学生時代に誰もいない体育館で無我夢中でバスケットボールをついていたあの時や、自宅でインソールを夜中の3時までかけて色々と試したあの時。

自己も世間も時間も空間も超越する感覚を私も知っている。

痛みをとる。動きを良くする。姿勢を変える。

その先に待ちわびているその瞬間。

私にとって医学的根拠に合ってるのか間違っているのか、オードリー若林曰く「退屈な話」で、それより相手との垣根がなくなり、その人の深いところにある何かを引き出せた時、その人の目が輝いた時、人生の分岐点を共有できた時、その瞬間が楽しくて自分の体裁や相手との関係性や、それが仕事で、そこが職場であることも含めて全部ふっ飛んでしまう。

その瞬間をただ待っている。

王道なんてそもそも走る気はない。でも邪道だなんて言わせたくない。

期待はしてないけど諦めてもいない。

私は普通だけど、世の中の普通の物差しで測って欲しくはない。

いつも相反する気持ちを抱えている。

一瞬の永遠を求め、ナビとあちこち彷徨うのも悪くない。

検問は避けていいし、時には擬態して何食わぬ顔で素通りしていい。

そのうちに私も2人のように誰かの希望になれるかもしれない。

それは、ずっとガッカリしたきた自分自身に対する復讐で、あの時悔しくて泣いた自分自身への救済で、これから先もまだまだおもしろい事が待っていると思える自分自身にとっての希望だ。

当時のSNS投稿から(2021/9/11)

希望となる。明日をつくる。その時を待っている。

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