来たる10月28日に、縁あって講演をさせていただくことになった。理学療法士になるために学んだ母校で開催される、記念すべき第1回目の卒業生学術交流会でだ。
経験年数は気づけば10年を超えている。この仕事の平均年齢のせいか、病院という限られた世界のせいか、数年所属しているだけで中堅と言われ始めることには未だ嫌悪感と違和感しか覚えない。なるべく新人のふりをして、中堅のふりをして、飛び出さぬように自分で杭を打ち、ここまでやってきた。しかし、そろそろ一般的な社会の物差しで測っても、もう中堅とは名乗れないところまで来ているらしい。
追いかける背中はまだ多く、そしてまだ遠い。
まだまだ前だけを見て走りたい。
気づくと「ベテラン」に片足を突っ込んでいる。歩く足跡はいつだって同じなのに。
とっくに足りない経験を言い訳にできないところまできていて、振り返ると数多くの後輩がいることを意識せざるを得なくなってきた。
何かを少しづつ渡していく世代になってきてしまったのか。
「何ができるというのだ」
自由にお任せしますと依頼された講演だ。ありふれた職務経験や、培ってきた技術よりも、伝えられること、伝えたいことがある。そう思った。
“イズム”
昔から何かと”イズム”を口にしてきた。辞書を開くと「主義」や「説」のことであるが、それは私にとっては恩師の教えのことで、信条や個人規範として深く私の中で燃えている。
思えば指導者に恵まれてきた。
ミニバス、中学の部活、高校の部活、大学時代、実習先、新人時代、大学院…。
いったい私の中で燃え続けるそれはなんなのか。
知りたい。
この週末に話せば何かわかるような気がしている。
楽しみだ。
理学療法士になる。その先に待っていた大学生活。想像していたキャンパスライフは程遠く、個人ロッカーに詰め込んだ専門知識を、色鮮やかなジャージを着て学んだ日々だった。実習でお世話になったヒーロー達のようになりたいと、時に1日のほとんどを”ここ”で過ごし、国家試験を経て、今や千を超えるその種が各地各分野で花を咲かせている。10年以上やってみたけど、未だに理学療法士が何者なのかよく分からない。何年経っても悩みは尽きない。あの頃の自分が思い描いた理学療法士にはなれていないかもしれない。でも、そんな等身大の姿を見た誰かがなりたい理学療法士にはなれるかもしれない。恩師、先輩、同期、後輩、実習生…縦に、横に繋がるたくさんの関係性の中で感じた”イズム”とは。顔も名前も知らない同志に向けて話します。ただ確かなことは”ここ”で学んだ仲間であること。”イズム”が今日また拡がり、そしてまた次の誰かへと繋がることを願って。
学術交流会に向けて書いた講演概要より
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