繭の中で生まれる相対的不幸

『スマホ時代の哲学』からネガティブケイパビリティを知り、そこから趣味を持つことが有用な一手であると学んだ。

趣味を通じて何かを育むことは、謎そのもの、または他者、あるいは内なる自分のような存在と対話することであった。

そこで趣味について違う角度から考えてみようと、昔買ったまま読まずに放置していたディスタンクシオンをひっぱり出してきた。

この手の本は、買いたい衝動のまま買ったはいいものの、内容の〈かたさ〉に思わず立ち止まってしまうことが多い。

読みたいきっかけが明確にあると案外読み進めることができる。半ばラジオのためと宿題のようなものだったが、そうでもしないとずっと読まなかったかもしれない。

この本のテーマは、自分の趣味や好きなものが自分の意思ではなく、社会によって選ばされているという側面にフォーカスしている。終始、「言わんでいいのに」が続き、私たちの現実を包むオブラートは丁寧に剥がされていく。社会の見えざる手によって界隈に分類されていたと思うと、やっぱり人間活動なんて最初から無意味なものじゃないかとすら思える。

だからといって、運命やガチャのような決定論だと人生を諦めるのではなく、不自由の中で、互いに理解することはない合理性やルールを尊重しながら自由を獲得していく態度が大切だと思う。

お茶の間の壁はインターネットによって破壊された。生身が剥き出しになった私たちは今、アルゴリズムというただの機械の仕組みによって、繭(コクーン)に閉じ込められようとしている。

私はそれを生理的に拒絶する。

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歴史や社会の影響をどうしようもなく受け取って私たちの嗜好性は出来上がっていく。

街へ繰り出すと、クリスマスに浮かれた冬のセールが開催されている。どこへ行っても同じものが売っている気がする。

困っていない生活をわざわざ意識させて、困っていることを探させているように受け取ってしまう。

生活を切り詰め、企業や商品のために人生をデザインさせられてないかと疑いたくなる。

相対的な不幸を自ら生成している。

ああ、もう堅固なコクーンの中にいるんだな。

トレンドを積分したものが文化や歴史のような壮大なものを作ると思うと、なんとも言えない気持ちになる。

そりゃ伝統を築き上げるってのは並大抵のことじゃないよな。

これから先、未来に残すべきものを誰が判断してどうやって渡していくのだろうか。

人間か、機械か。

正しさや価値は時代や立場によって変わる。責任の所在も曖昧になる。

社会や機械によって分類された先で最適化された私たちは、自らの価値観を誰かにぶつけることもできなくなるのだろうか。

何かを好きと叫んでも、硬い外壁に当たって虚しく響くだけだ。

自由という幻想を夢見て、繭に閉じ込められて一生を終える。

なんだか家畜みたいだな。

蝶は繭の中で一度ドロドロに身体を溶かしてその時を待つという。

そうならば、私たちもまた、不自由の中にある自由を知ることで、固い繭を破る翼が手に入る。

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