継がぬ道と繋ぐ意志

エッセイ

研究室からの帰り道。深夜ラジオを聴いて、熱った頭と気持ちをクールダウンするのが好きだった。

何度目の”今年こそは”を、今年こそ乗り越えるために、研究室に足を運んだ。「ご無沙汰しております」は数ヶ月以上会っていない相手に使うらしい。

院生時代の習慣や景色を懐かしんでいる場合じゃない。

その空白の期間に準備できたこと、できなかったことを整理して、次の行動に繋げよう。

とはいえ、ゼミ後に学長室で頂くコーヒーは格別で、カフェインのせいなのか、久々に研究室で自分の考えを話す機会に高揚したのか、はたまたエネルギー溢れる人達に会ったからなのか、その夜はなかなか寝付けなかった。

「新しいことをする」

「重要なのは問いたてである」

技術の発展や普及は人を平均化する。

先人達のおかげで険しい道が歩きやすくなった。だが、我々はいつまで同じ道を、何の疑問も持たずに歩き続けるつもりなのか。

イズムはお守りのように、十二分に大切にしてきた。擦り洗っても落ちないほどに染み付いている。だからこそ、フロントランナー達がいつか去る前に、やらなきゃいけないことがあるはずだ。

リテラシーの低下を嘆く立場ではない。コーヒーを飲んで、一息ついて、勘違いしている場合じゃない。

「核となる信念、信条が大切である」

先生達の言葉をずっと反芻している。

専門性は大切だが、特化しすぎて話が通じないといけない。対話をあきらめない。

わからないことはとにかく考えて、考えて、納得いくまで考える。考え抜くことは得意なはずだ。

地球の時間の中では、人類史なんてほんの僅かにも及ばない。そんなスケールの中で発展してきた医学や解剖学、運動学などはどこへ向かっていくのか。そして理学療法学とはいったい何なのか。これら学問でさえ、未完成のまま、いつか消えゆく絶滅危惧種なのであろうか。

パンデミックやAIによる職種の消滅なんて大した問題じゃないとしたら。我々は大きな流れの中では仲間かもしれないし、ただの変わり者なのかもしれない。

でも、この仕事の温度や価値を肌で知っている。

何も無かったことにはならない。

大抵の事に、答えはない。都合の良い答えなら、むしろ聞きたくない。本質に、真理に少しでも近づいてみたい。時間はどれだけ残されているのだろうか。

砂時計はひっくり返せない。

コメント