イズム 〜能動的に学ぶ編〜

エッセイ

さてF先生から学んだことは数えたらきりがないのだが、コロナ禍で印象に残ったちょっとした学びがある。

ふとした一言でパラダイムシフトが起きることがある。

パラダイムシフト

かっこよく聞こえるが、要は眼から鱗がポロポロと落ちた話があるのでここにシェアしたいと思う。

多くのサービスがオンラインによる対応を求められている中、学校教育も例外ではない。我が母校も大変そうだ。

先日、F先生と話す機会があった。

例年であれば90分1コマの授業を受けられるはずが、オンラインでは形が変わって学生へ届く。講義時間は短縮し、質問も思うようなタイミングでは聞けない状況であろう事に、今年の学生は”可哀想”だと感じた。

しかし、F先生は

「そうじゃないんだ。本来ならわからない事は学生が自ら調べて勉強するもんなんだ。」

と言った。

なるほど。

あくまで学ぶきっかけがあれば勉学は成り立つ。能動的な学習態度にそもそも空白はない。理解するために本を開く。本がなければ探しに出向く。それでもなければどうすればいいか考える。与えられた情報を覚えることが勉強ではない。(そもそもそんな暗記スキルはAIの最も得意なことであり、これから先必要ないだろう)

こういった能動的な姿勢は、勉強に限らず、特にここ最近は大切だと感じる。医療機関のみならず、薬局やスーパーに至るまで、受動的なお客様モードの人は多く見受けられる。

行けば当たり前に受けられていたサービスや手に入っていたものが当たり前に得られないとお客様は怒る。相手のバックグラウンドまで想像が及ばず、自分の予想通りにいかない結末が受け入れられないのだろう。

とても主観的で支配的、自己中心的な行動だと思う。

先程の私の発言は、お客様視点から来る発言だ。学費を払っているんだから90分目の前に教師がいないと損だ。と思い込んでいる。見事に視点がずれている。

先生のこの言葉は最近の私を楽にしてくれた。例えば会議の資料など見やすいように、わかりやすいようにデザインにこだわりすぎていた感がある。

ここで大切なのはデザインより本質だ。

物事の本質がしっかりしてるから、デザインでよりそれは輝く。

本質なきデザインは時に誇張で何も伝わらないし、何も響かない。デザインの力は強力ゆえに本質を見失いがちになる。

教師は生徒を、親は子を、先輩は後輩を教育する。教える側は愛のある教育を。そして視点を逆転すれば、立場も逆転する。教えてるようで実は教わっている。常に能動的な姿勢で学び続けていきたいものだ。

当時のSNS投稿から (2020/5/28)

年齢や経験年数に比例して、誰かに何かを教えてもらう機会は自然と減っていく。

しかしこの気づきから、能動的に学ぶ姿勢さえ見失わなければ、どんなことからも学ぶことができる。

特に後輩指導や学生指導をするとわかる。教えているようで教わっている。

一番得をしているのは教える側だということに気づけたらもうけものだ。

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