イズム 〜教授の最終講義編〜

エッセイ

知のバトンを落とさぬように握り締めたい。

映画主題のような荘厳さがある。モニター越しにそう思いを馳せてしまうのはM先生だからこそである。学部時代から大学院までお世話になったM先生の最終講義を先月、拝見した。

授業資料を見返せば見返す程、教えて頂いたことの幅広さと奥深さに圧倒されてしまう。何を教えてもらい、何を学んだのか、何度も手が止まり考え込んでしまった。熱量そのままに書けなかった。言葉が足りないとはまさにこのことだ。

院での授業は少人数で、先生を独り占めするように質問を毎週毎週投げかけて、一つ一つ丁寧に教えてもらった。資料を見ているだけで胸に込み上げてくるものがあり、感謝はもちろんだが、同時に絶望感に似たものを感じた。

我々は”知らない”を認識できない。何かを学び、”知っている”状態になって初めて、その境目に”知らない”があることに気づく。

その”知らない”すら主観的かつ表面的で、その外側にある真理は認識できない。

分かるほどに分からないが増えていく。

広く、深い、M先生はどれだけご自身が知らないことを知っているのだろうかと想像してみると、いつも謙虚な、あのお人柄も納得できる。

実るほど頭の下がる稲穂とはまさに。

最後の挨拶の中で、先生が今なお、追求している3つのテーマを教えてくれた。

What is human? – 人とは何か?

What is life? – 生命とは何か?

What is consciousness? – 意識とは何か?

これを聞いて私はとても嬉しかった。

理学療法の研究となるとどうしても「科学的根拠に基づいた理学療法」というフレーズとフレームが真っ先に思い浮かぶ。

それが(もちろん大事なことだと前提として思いつつも)どこか窮屈に感じている。

しかし、その概念を授業で教えてくれたM先生の口から本質的なことを追求してきたと聞いて、私は「こういうことを言っていいんだ」とどこか気持ちが楽になった。

知的好奇心は大きなモチベーションである。

だからこそ筋繊維からエネルギー代謝、バイオメカニクスから神経科学まであんなに幅広く、奥深く、そして数式モデルによって一般化を試みてこられたのかと勝手ながらに想像した。

先生から頂いたわかりやすく、使いやすいこの世界の地図を更新し、次世代へ繋いでいくことは教え子の役目だと強く思っている。

臨床経験が増えると疑問点も増える。

私が思うに勉強の一つの役割は共通言語が増えること、コミュニケーションそのものである。

今ならもっと上手に教えてもらえるのになと絶望していたが、理学療法士として人や生命現象を追求していればまたすぐに会えるような気がした。

M先生ロスの最中に、実習で携わった学生から国家試験合格の吉報が届いた。そこには「PTとして色んなことを教えてもらえるように頑張ります」と添えられていた。

学びとは一方向性ではない。教わるために学び、教えることでまた学ぶ。

春が来た。垂れるほど実りはない。新米のような新鮮さもない。

そんな私にできることはたかが知れているからこそ、知れてないことが山ほどあると分かる。

一つずつ知ることで、明日の私にはできるかもしれないと思えてくる。

今日この頃、私は自分の成長に期待していて、それがとても楽しい。

毎日が発見の連続であっという間に1日が、1週間が過ぎていく。

明日に種を撒き、日々の小さな疑問の芽を大切に育てよう。

M先生にまた教えてもらえるように。

理学療法士になったばかりのあの子にまた教えられるように。

イズムを繋いで。

当時のSNS投稿から (2022/4/11)

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