デザインの芽と眼

エッセイ

いつまでも慣れない暑さの中、いつまでも慣れない表参道を歩いた。非日常的すぎて馴染めない街の中にあるギャラリーへ。デザインを学ぶ知り合いが作品を展示したので、それを見届けてきた。進路を見てきた立場としては「授業参観の親心」と言ったら怒られるだろうか。馴染みのない行動に自分でも浮き足立つのがよくわかる。

生活に密着したデザインを学ぶ学生による制作発表。アートの造詣は深くはないが、制作者が創造したいことを想像するのが好きだ。それが「生活」ならば、より解る気がする。

リハビリテーション分野において、デザインといえばユニバーサルデザインがまず思い浮かぶ。誰でも使えるデザインとは「機能的」に、と発想しがちだが、展示されていた作品はどれも「使ってみたい」に帰着していたように感じた。そして使うことによって行動をデザインし、行動によって空間をデザインする。そんな目には見えないデザインが見えた。

私達の日々の業務では、対象者の身体機能を評価し、情報を統合し、解釈し、プログラムを立てる。”それっぽい”言い方をすれば運動をデザインし、動作をデザインし、行為をデザインする。

誰もが「動ける」デザインよりも、誰もが「動いてみたい」と思えるようなデザインがいいなと率直に思った。

先日学んだ『未来=夢×技術×デザイン』という方程式を考える。

大きな未来そのものを象徴している若い芽と、まだまだ発展途上にある彼らの技術やデザイン力を鑑みると、この方程式を釣り合わせるには大きな夢を見ることが必要だ。

若者が夢をみることが未来を作る。
実にシンプルな法則だ。

知り合いの作品は「らしさ」を大切に、丁寧に創作されていた。

客観的で相対的な完成度よりも、主観的で絶対的な「らしさ」に魅かれることの方が経験として多い。

埋もれることなく、俯くことなく、自分の感性を信じ続けることは簡単ではない。

ただ、自信のない創作に「らしさ」は宿らない。

私はあの場でそれを感じ、短くも有意義な時間を過ごした。

私も自分の表現を大切にしたいと思えた。

実空間で感じる制作者のヒューマンタッチに心は動く。デジタルに軌跡を残すのではなく、振動した心の中で花丸をつけて会場を後にした。どうかこのまま『らしさ』を大切にして欲しいと願いながら。

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