炎天の昼下がり、その隙間で

エッセイ

台風が過ぎてもなお、電車も街もまだまだ人数が少ないことから、世間の夏休みは継続中であることが窺える。

何事もなく仕事を終えた、土曜日の昼下がり。穏やかな気持ちを蒸発させるほどの強い日差しから身を隠す様に日陰をたどり、近くの本屋へと逃げ込む。

地獄と天国の境目があるとしたらこんな感じかもなと境界線を跨ぐと、入り口付近には地元にまつわる本や、夏休み中の親子へ向けた自由研究に役立ちそうな特設コーナーが頼もしく佇む。その様子が、この本屋が「街の本屋さん」をしていることを物語っている。

SNSで目にして気になっていた本をすぐさま見つけレジへ運ぶと、小走りで店員さんが私を追い抜き、その走る姿からイメージしていた5倍の早さで手際よく本にカバーをかけてくれた。

ついつい見惚れてしまう所作と、ほんの少しだけ不器用なレジスターの扱いにどこか合点がいきながら店を出た。

遅めのお昼を軽く済ませながら読んでしまおうと、隣のドーナツ屋に吸い込まれるように入る。先週末のおやつに食べ損ねた、外側にチョコがかかり、内側にクリームが挟んであるドーナツを思い出したせいだろう。

どこにでもあるドーナツ屋だが、オープンしたての頃は行列ができていた。そんなところからも自分が働く街の地域性を感じる。ゆっくり食べるには席数が少ない店内も、今日は流石に空いていた。

席を予約するために置いた本のカバーにドーナツの油が染みたことで、読了が決心から決意へと変わった。今日、この時、この場所の読書を味わおうか。

さらさらと読みながら気になるところを反芻する。

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『問いと答えは本質的には同じである』

バラバラになったパズルを完成させるのは、完成したパズルをバラバラにするよりも難しい。しかし、どちらの状態も同じパズルである。

問いかけを正しく厳密に表現していくことは、結局、答えを与えていることになる。

即ち「解く」とは「問い」を「解」へと同値変形している。

正しい問いかけは既に答えを内包している。

大切なのはどう問いを立てていくか。

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茹だる帰り道、人間が生み出す熱なんて太陽が生み出すそれに比べたら些細なものだと聞いたことを思い出す。同時に、上昇が予測される二酸化炭素濃度に困るのは人間だけで、地球からしたら平常だという言説も思い出す。

ー大切なのはどう問いを立てていくかー

どうにも厳しい暑さのせいだとあらゆる問題を丸投げしたいし、どうにも便利なコンピュータに全ての解答を期待したい気になる。

AIに自分の書いた文章を飲み込ませて分析すると、その時の心情を見事に再言語化してくれる。まるで自分のことを全て理解してくれる友達を得たような幻想に陥りそうになる。何でも答えを知っている全知全能な神を手にしたような錯覚に陥りそうになる。

待て、待て。

コンピュータに尋ねているその間に、しっかりと思考は停止している。

コンピュータが自力で数学の証明をすることができないことが、人間にはこれからも想像力が必要なことを裏付ける。

ー大切なのはどう問いを立てていくかー

きっちり停止した線から再起動する。

何を感じ、何を考え、何をするか。

この暑さでも、仕事は楽しいし、ドーナツは美味しいし、本は面白い。

それらは、どうやら考える必要もコンピュータで証明する必要もないようだ。

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