小さな発明家

エッセイ

息子の創作意欲はいつも爆発している。

帰宅するなり手も洗わずにLEGOを触り、父か母に怒られるところまでがお決まりのパターンだ。

帰り道で見た車や重機を再現したり、絵本や図鑑に書いてある恐竜をあっという間に甦らせる。0から1に、2次元から3次元に変換する手際は親ながら羨ましく思う。設計図はどこにあるのか、頭の中を覗いてみたい。

彼らの個性や創造性が、夜空の星々のように少しでも永く光り続けられますようにと願う。

今日この頃の親心である。

こどもというものは実に創造的である。たいていのこどもは労せずして詩人であり、小発明家である。ところが、学校で知識を与えられるにつれて、散文的になり、人まねがうまくなる。

引用)外山滋比古,1986,「思考の整理学」,筑摩書房

私達は学校教育の中で作法や社会性を身につけてきた。その対価として置いてきてしまったものがあるならば、それはおそらく大きいものである。(と思いたい。)

創造性は今も昔も、これからも大切だろう。それを奪うことは、時に誰かの人生や命を奪うこともある。とある天才が天才のままで在るためには、鉛筆よりもおもちゃが必要なのだ。私達はおおいに遊ぶために生まれてきた。

臨床家にとって、臨床は表現の一部と言っていいだろう。テレビの向こうのアーティストに比べたら派手な創造性はないかもしれないが、何かを考えては作り、試す。上手くいけば楽しいし、上手くいかないと悔しい。何かが生まれた時にはやりがい、生きがい、時に存在意義をも感じ、逆に生み出せない時は、苦しい。

There is no wealth but life.

Lifeは生命で、生活で、人生である。

こんなにも私達に身近な言葉があるだろうか。

動くことは動物の本質だ。身体機能の充実は生活を満たし、生活の積み重ねが人生を形あるものにする。

働く事で再確認する。私は人に興味がある。

心を燃やす。目の前のなすべき事に集中し、手を尽くす。そこに嘘をついたらきっと私は私でなくなる。その人の生活に参加する以上、新たに何か1つ作れたら。

子供に社会の作法やルールを教えることは難しい。その中でも彼らの自己表現を見守りたい。何も奪わないように心がけたい。

友の自己表現を喝采したい。冷笑する暇もないほどに自分のことでいっぱいいっぱいな社会だからこそ。

息子がLEGOで遊ぶ姿を見て、楽しんだもの勝ちだよな、と思う。

私は私で、来月から新しく始まる地域講座の資料作りをしている。

どんなものを作ろうか。

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