白紙があれば

エッセイ

白い紙を机に広げる。好きに描いていいんだよと言われると、その無限の可能性に思考が停止する。「”何でもいい”が1番困る」のは子供の頃からよく知っている。何を描こうか。そもそも私に何が描けるのか。

人生が選択の連続だとして、それならば自分で決める方が納得いくだろうし、幸福度は高そうだ。しかし、自分で選び、掴み取ったつもりでいても、振り返ると”あの人のおかげ”だったことによく気づく。友人の些細な一言や行動が大きな分岐点になったりすることもある。

近況を窺う上でSNSは強力だ。お元気ですかと聞かずとも、タイムラインが順風満帆であろうその様子を(良くも悪くも表面的に)教えてくれる。時にコンプレックスを刺激されながら、それを健全かつ安全な距離をとりながら眺めている。

だが、遠くのそれは、決して対話より優れない。先日、大学時代の友人に会った。絵が描ける友人の作品がカフェに展示されるということで、近況報告を目的に見に行った。

働きながら進学するという、1つの分岐点を提示してくれた友人だ。学び、探究していくことは私の根幹となっているので、それに気づくきっかけを与えてくれた友人にはいつも感謝している。

友人は、私みたいにあからさまに言葉を並べるタイプではない。その佇まいや歩んできた道のりに、そして描いた作品に”らしさ”が溢れている。

私は美術や音楽に関して素養は全くないが、自分の”好き”センサーはかなり信頼している。

“人”を感じるものに不思議と惹かれる。AIが自動生成した高品質な絵のおかげで、誰がどんな絵を描くかにより価値が高まる。その人のフィルターを通した表現が見たい。

実際の白紙を目の前にするとして、私だったら何を”書き出そうか”と考える。しかし友人は、白い紙を目の前にすると「何でもできる」「何色を並べようかって思う」と言った。そんな事を思った事がない。丁寧な言葉よりも伝わる表現ができることが羨ましい。

ギターケースを抱え歩くその少年は、仲間と楽しげに話している
好きな音楽の話か、それとも好きな女の子の話か?
そのギターで未来を変えるつもりかい?
それならいつか仲間に入れてくれ
僕だって何もかもを、もの分かりよく年老いたくはないんだ

引用)Mr.Children「横断歩道を渡る人たち」(作詞:桜井和寿)

絵も描けない、ギターも弾けない。だから誰にでもできることの中から、自分にできることを探すしかない。普通のことを自分にしかできないところまで続けていくしかない。

1人の理学療法士が社会に対してどれだけポジティブなインパクトを与えられるかを検証することは私のチャレンジである。一方で、1人の力でできることなんてたかが知れていることも分かっている。

友と話して、自分にできないことを確信して、それでも嬉しいのは仲間だからだ。自分にできないことをできる人がいる。補い合って、支え合って、迷惑をかけ合って、そうやって立ち向かっていけば良い。この時代に一緒に戦える仲間がいることが何よりも心強い。

友達に、”お手本のような人”だと言われた。

私からすれば「お手本のようにしなくちゃいけない」という、旧態依然な価値観の呪いと、持て余す程に強烈な向上心に囚われた成れの果てでしかないと思っている。

でも、不思議と誰かに言われただけで、簡単にひっくり返るものだ。友人に言われたならば、それもまた自分の武器だと信じてみる。

オセロで勝つには端を抑えることが有効だ。
まずは一手置いてみよう。

描けないから、書き出してきた。
弾けないから、語ってきた。

お手本を取捨選択しているうちに、ぼんやりと自分の輪郭が、そして自分の戦い方がみえてくる。

この手で選び、掴んだ幸福も、周囲の人に与えられたものであると思えるなら、私もまた誰かにとって、呪いを解くためのお手本になれるかもしれない。

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