僕らは地域の担い手

エッセイ

昔から「地域」についてぼんやりと考えている。それは「コミュニティ」ともいえて、オンラインサロンが流行るもっと前から、私の中では無視できないテーマになっている。

改めて記憶を辿ると、学生時代に初めての実習でお世話になったバイザーが、福祉住環境コーディネーター1級を持っていたことが大きかったかもしれない。初めての現場は全てが新鮮で、”その人の生活へ帰るために”という憧れてたそれだけではなく、人から家へ、家から街へと、理学療法士が介入できる対象と関心が一気に広がったことを覚えている。

新人になり、その恩師のようにと、同資格1級の勉強やワークショップに参加しながら、”病院で患者を待っているだけで良いのだろうか”という漠然とした思いを抱いた。患者は自分の手を離れ、病院を離れ、その後どこへ帰るのか。病院内の出来事は全てが非日常的なイベントで、非日常の中で日常を過ごすことに、なんとも言い難い思いが芽生えていた。

もちろんそれは医療というシステムの中で、さらにリハビリテーションという立場で、その中でもたった1人の主観的な視点から見た問題に過ぎないことは理解している。病院のその代え難い役割を最大限にリスペクトしながら、地域における医療機関の意義をよく考えた。

迎える。寄り添う。差し伸べる。
施す。与える。時に依存する。
自助。互助。公助。共助。…

もちろん無くては困るが、あって当たり前かというと、そういう事でもない。

「私がいなくても代わりはいるもの」

答えのない問いたてに口をつぐむ。

 

同時期だったか、地元、群馬県富岡市の通い慣れた本屋で、コミュニティデザイナーの山崎亮さんの著書が並び、何故急に縁もゆかりもない人の特集コーナーが?と不思議に思っていた。後に分かったが、富岡製糸場の世界遺産登録を契機に、様変わりしていく街や観光資源を持続可能なものにしていくため、山崎亮さん率いるstudio-Lが関わっていた。

この時に、コミュニティデザインというものを知り、山崎亮さんの本を片っ端から読んだ。駆け込むように講演を聴講したり、「富岡まちづくり・ひとづくりプロジェクト」のワークショップに県外から参加したりした。調べるほどに、理学療法士のアプローチと、コミュニティデザイナーの地域に対するアプローチが似ていると思った。そして、病院の外の”日常”にも課題は山積みだった。

ただただ、興味に従って、誰にも言わず、誰にも頼まれず、なぜ「地域」をぼんやりと考え続けているのか、整理しているうちに10年前に書いたブログが出てきた。

リハビリテーションの視点からまちづくりに参加する。私にできること、私のやりたいこと、まちに求められるもの。夢でも趣味でも労働でもなく、私にしかできない企画があるはず。そのヒントを私自身もこの活動(富岡まちづくり・ひとづくりプロジェクト)を通して見つけたいと思う。

新人時代のブログから

何も変わってない。相変わらずの根拠のない自信と熱意に目が眩む。見方によっては全く成長してなくてうんざりもする。

とにかく地域に対して何かもっとやることや、できることがあるだろうという漠然とした思いをずっと抱えていた。「病気にならない街づくり」を考えたこともあったが、途方もなさすぎて言葉にできず、知らないうちに箱に入れて頭の奥に仕舞っていた。

社会に出て数年だった。もちろん知識も経験も実績も足りない。
やりたい事に翻弄されながら、考えただけで前に進んだ気になっていた。

でもね僕らは未来の担い手
人の形した光
暗闇と戯れ合っては
眩しく煌めく「箒星」

心配事ばっかり見付けないで
慌てないで探していこう
いつか必ず叶うって決め込んで
路頭に迷った祈り

Mr.children「箒星」(作詞:桜井和寿)

 

とある勉強会で師の前で口にした「地域に興味がある」という言葉をきっかけに、今の地域総合型スポーツクラブでの活動に繋がった。

そして先日、その活動をきっかけに、行政に携わる理学療法士の方から、地域システムから一緒に構築していかないかとお誘いを受けた。

時代のニーズに後押しされて、同じ志を持つ人に出会う機会が増えてきた。

点と点が繋がり、線になって、やりたいことが立体的になり始めている。

今なら、あの箱を開けられる気がしている。

「病気にならない街づくり」を達成したい。そんな夢のような、趣味のような、労働のような、曖昧な事を口にしてもいいような気もしている。見つけたその、ど真ん中に、私は飛び込む。

 

新人の頃、未来に向かって書いていた。


遠い将来、今の延長上に自分のスキルを活かして、地域に還元している自分を想像する。

新人時代のブログから

10年経った今、どうやら私の日常はいつかの”遠い将来”らしい。

捨てるにはもったいないと、子供のおもちゃを詰め込んだ箱のように、しまっておいた、やりたいことが今にも飛び出してきそうな毎日だ。

こんな日々をずっと心待ちにしていた。

少しも取りこぼしてやるものか。

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