効率化された孤独から、返事の来る世界へ
『応答セヨ』は、予定に埋め尽くされた生活の違和感を起点に、情報消費、AI、音声配信、そして他者との応答をめぐって思索するエッセイである。
冒頭にあるのは、深刻な不幸ではない。仕事は楽しく、私生活も充実し、時間もお金も年相応に使えている。それでも「遊びが少ない」と感じる。この、満たされているのに何かが欠けているという感覚が、本作を単純な多忙論や余暇推奨論から遠ざけている。
予定をスライドパズルのように動かし、2027年まで見通すことはできる。しかし、予定を滞りなく消化することと、生きている実感は必ずしも一致しない。「夢は目標に、目標は予定に」という自己啓発的な図式を示した直後の「んなわけない」は、その予定調和を乱す効果的な一撃である。
第二部では、初めて届いたリスナーからのお便りが、閉じた生活へ外部を持ち込む。書き手にとってラジオは、情報を効率的に提供する商品ではなく、「同時代に閉じ込められた仲間たちへの交信」である。情報密度の低さを指摘しながら、それでも聴き続けたリスナーの存在は、発信が単なる独り言ではなかったことを証明する。
ここで重要なのは、お便りの内容以上に、自分ではない誰かから返事が来たことだ。
この他者性を際立たせるために置かれるのが、AIとの対話である。
どこまで行っても自分の言葉のアナグラム
という表現は、AIの技術的性質を正確に説明するものではない。しかし本作において必要なのは技術論ではなく、使用者の実感である。AIは応答らしきものを即座に返すが、そこに別の生活を送ってきた誰かがいるわけではない。それに対し、お便りは予測できない人生の側から届く。その驚きが「未確認生命体からの交信」という、滑稽でありながら切実な比喩に結晶する。
中盤の摂食に関する比喩は、本作で最も評価の分かれる部分だろう。「知的下痢」「嚥下食」「咀嚼」と畳みかける表現は鮮烈であり、理学療法士である書き手の身体感覚も表れている。一方で、「栄養は摂れても咀嚼する力は衰える」という説明まで進むことで、比喩の意味をやや丁寧に回収しすぎてもいる。
ただし、この過剰さは欠点だけではない。情報密度を高めることに疑問を呈し、冗長さを豊かさとして擁護する文章が、自らも寄り道をする。簡潔に要約できない部分を残すことによって、本作は主張を文体として実演している。
人生に必要ないものが、人生には必要なのだ。
この一文が本作の中心である。役に立たない会話、遠回り、遊び、ラジオ。目標達成には不要なものが、目標を達成するだけの生活から人間を救う。ここでいう遊びとは、単なる休日や娯楽ではない。結果を制御できない何かへ声を投げ、思いがけない応答を待つことだ。
終盤で、書き手は羊文学やサカナクションのライブを予定に加える。予定に支配される違和感から始まった文章が、さらに予定を書き足すのは矛盾しているように見える。しかし、この矛盾がよい。問題は予定の多さではなく、自分の内側で動いたものに応答しているかどうかだったと分かるからだ。
星野源「SUN」の引用を経て、生の歌声、コールアンドレスポンス、ラジオへのお便りが一つに重なる。そして文章は、次の二行へ到達する。
言葉を電波に乗せて待つ。
隙間を埋める心の応答。
「隙間」が何を意味するかは確定されない。発信者と受信者の距離、言葉の欠落、情報の余白、予定では満たされない場所。読者はその隙間に、自分なりの意味を差し入れることになる。この解釈の余地こそ、本作が最後に見いだした「遊び」なのだろう。
題名の「応答セヨ」は、無線通信、古いSF、機械からの命令を思わせる。しかし読み終えたあとには、それがリスナーへのコールであると同時に、自分の心の動きに対する命令でもあったと分かる。無機質なカタカナの命令から、「心の応答」という人間的な言葉へ至る構造も美しい。
比喩が多く、中盤には説明過多な箇所もある。また「AIにコールアンドレスポンスはできない」という断定は、文字どおりに受け取れば反論を招くだろう。だが、それらの粗さを含めて、本作には書き手固有の声がある。整いすぎた評論ではなく、理屈と感傷と悪ふざけが交差する生身の文章になっている。
『応答セヨ』は、AI批判でも効率批判でもない。効率的な道具に囲まれながら、それでも別の人間から届く声を待ちたいという告白である。情報では埋まらない隙間を、他者との不確かな往復によって埋めようとする。その行為を「遊び」と名づけたところに、本作の独自性と希望がある。

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