テレビの調子が悪い

録画したアニメやドラマが観れない。

と妻と子供達が騒いでいる。今どきTVerがあるじゃ…いやちょっと待て、VIVANTがテレビで見れない!?それはいかん!VIVANTはテレビで観ないと。

そういえば令和になってテレビはモニターとしか思わなくなった。お茶の間のテレビを家族みんなで囲んで、明日の学校の話題になるバラエティ番組を観ることもなくなった。妻も息子もリアルタイムではなくて、空き時間に録画したものを楽しんでいる。私は空き時間さえ惜しいので、スマホで話題になったものを後から隙間時間に楽しんでいる。

令和を生きる子供達のバラエティセンスが急に心配になってきた。ノリやセンスなんて曖昧なものが物差しになるなんてくだらないよと親になると思いつつも、子供の世界ではノリやセンスが救いになることがあるのも事実。

試しに先日のキングオブコントを見せるとジェラードンでゲラゲラと笑っていた。動画サイトで”笑う犬”をみせると喉の奥がはっきりと見えるほどに笑っていた。

ここまで笑ってはいけないものをたくさん教えてきた気がする。真剣に、ひたむきに、真面目に。誰かの頑張りを賞賛したり、誰にも真似できないような発想に驚いたり。

これからは笑っていいものを教えていきたいな。悲しみを笑って吹き飛ばせるように。怒りをユーモアで溶かせるように。

さてと、本腰を入れてAIを片手にテレビを調べる。どうやらテレビのせいでも、配線の問題でもない。日によっては見ることができると思いきや、朝になると見れなかったり、再現性がなくて素人にはお手上げだった。台風が多かったこともあって、いよいよ原因はアンテナではないかと疑い出した。

業者に電話するとあっという間に日取りが決まった。翌日に、ナチョスのまなみちゃんによく似た職人さんが来た。関係ないが、夏にエアコンが壊れた時にはイグジットのりんたろー。に似ている人だったことを思い出した。

なんやかんやと調べてもらうと、原因はとある機器の雨による故障であった。

それを取り外すために脚立を使って職人さんが作業をする。

が、間取りと位置が悪く、ひとりでは困難を極めた。脚立を伸ばしての高所作業が必要になった。職人は私に脚立を押さえて欲しいとお願いしてきた。

もちろん答えはイエスだが、それにしても素人に命を預けすぎじゃない?って思うくらいに筋肉仕事だった。腕が固まってきたが、上にいる職人の命を預かっていると思うと力を抜くわけにはいかなかった。

作業を通じて謎の信頼感を共有した私は、上手くいったことによる心と肉体の解放感からか、「これはAIにはできない仕事ですね」と声をかけた。職人と客。日常的空間の中にある非日常的時間。生きている実感は生活や仕事と常に隣合わせだ。

AIに見積もりの相場を確認すると、構造的な問題によって、相場よりやや高いかもしれないと指摘されたが、私は高所作業費はもっと払ってもいいと思った(手伝った私にも払って欲しい)。

「職人」に昔から弱い。

自分にはできない仕事を淡々とこなす人達に興味がある。彼らの仕事は私の生活を支えてくれている。まだまだ光の当たらない仕事。だけど社会には無くてはならない仕事がたくさんあるのだろう。お金を払っているのだからサービスを享受して当たり前、なんてことはない。仕事に対して敬意を持って対価を払う。お金を払う以上に得られるものがある。

テレビが直ると、家族は喜んだ。私は日曜日の夜九時にテレビの前で正座した。テレビを楽しみに生活を過ごすなんて何年ぶりだろう。もう二度とないかもしれない。

テレビが直っても、テレビをみんなで囲むことはなかった。だけど娯楽もまた生活になくてはならないものだと気づいた。

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