数年前からずっと、キャンプに行きたいと思っていた。単純に自然が好きだし、なによりも焚き火に憧れていた。煌々と燃える火を前に、静かな時間を過ごしてみたい。
YouTubeに転がっている焚き火動画や、焚き火音を視聴するほど、火のゆらぎに恋焦がれていた。
小さい頃にはキャンプ経験もあったし、山に囲まれた田舎がルーツの人間としては定期的に自然と繋がっていることを肌で感じないと気が狂いそうになっていく。
SNS疲れを自覚した瞬間から、スマートフォンは「俺の臓器」ではなくて「ただの送信機」に成り果てる。今この現実を癒せるのは、あの火のゆらぎ以外にはない。
子連れ世代の旅行は幼い子供たちをもてなす必要があって、半ば仕事のような緊張が伴う。たまには肩の力を抜いた親でもいいだろうと、旅館やホテルではなくアウトドアな旅行を模索した。許されるならば、自然の中で子供たちを解き放ち、俗世から距離を置きたい。あわよくば、椅子を広げ、コーヒーの香りを広げ、お気に入りの本を広げたい。
「いつかはテント泊」とは思っているものの、妻や子供たちにとってはハードルが高いのも事実。まずはグランピングやコテージからでもいいと思い、折衷案としてトイレ・風呂が設備されている施設内にあるトレーラー型のコテージに泊まることにした。
施設内には温泉も遊園地もあり、満場一致のベストアンサーであった。
週末の仕事を終え、車を一時間ほど走らせると、あっという間に自然の中に溶け込んだ。大きく息を吸い、大きく息を吐く。非日常を吸って、日常を吐く。心も換気されていく。
子供たちは秘密基地のような狭い狭いトレーラーに興奮し、私は縦も、横も、高さも窮屈なベッドで昼寝をした。なんとも言えぬ懐かしさが込み上げた。娘と二人で大きめのベッドを使う妻が、そんなに狭くて大丈夫かと心配してくれたが、男という生き物は狭ければ狭いほど童心に帰ることができる。
夕食はバーベキューで、そのために火を準備する。炭を並べて、積み上げた中に着火剤を置く。火が灯り、内側から外側へと連鎖していく。
つくづく私にとって食事とは、誰と、どんな時間を過ごすかが大切なのだと思った。味に定評のある店や食材よりも、家族や仲間と火を囲むこと自体に意味がある。きっと人がヒトである頃から続く類のものだろう。
食後に温泉も満喫すると、消灯時間まであと一時間だった。焚き火には最低でも一時間は必要で、ゆっくりと火をつける余裕がない私は、閉店時間ギリギリの売店に駆け込んで着火剤を購入した。消灯時間の確認をされ、膨らんでいた気持ちに釘を刺されたようだったが、ここまで来て焚き火をしない選択肢はなかった。
念願のやすらぎを前にして、交感神経が活発になっているのを感じた。
着火剤と地ビールを手に、暗闇を走ってサイトに戻ると、就寝の準備をしながら、焼きマシュマロを楽しみにしていた子供たちが待っていた。
「明日の遊園地のために子供たちを早く寝かせねば」「消灯時間までに焚き火を終えねば」と、結局いつものタスクをこなすように着火剤に火をつけた。
憧れの焚き火は、思い描いていたものと違って時間との戦いになってしまった。
それでもパチパチと音を立てながら燃える火を見つめ、ひとり静かな時間を感じることができた。日常の喧騒も、非日常の不便さも忘れ、ただぼんやりとしながらゆらぐ火を見つめた。
朝起きると首と腰はしっかりと痛かった。髪についた炭の匂いはしばらく落ちそうになかった。
遊園地ではキラキラと輝く子供たちの笑顔が眩しかった。
これを日常の中でも引き出してやるのが親の努めだと思った。

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